19世紀から見た中世・初期ルネサンス

19世紀における中世・初期ルネサンス(プリミティヴ派)再評価関連文献翻訳

マドレーヌ・ラミ「19世紀におけるイタリアプリミティヴ派の発見:セルー・ダジャンクール(1730-1814)とフランスの収集家・批評家・芸術家に対するその影響」(1921年)

Madeleine Lamy, "La découverte des Primitifs italiens au XIXe siècle: Séroux d'Agincourt (1730-1814) et son influence sur les collectionneures, critiques et artistes français", La revue de l'art ancien et moderne, no. 39 (1921), pp. 169-181.

※一部原注省略。断りのない脚注は筆者。

 

17世紀と18世紀の一部の間、イタリア美術の歴史はユリウス2世とレオ10世の時代の巨匠たちとともに始まったものである。真の芸術は古代世界とともに消え、ローマ人の前にトルソ*1が、フィレンツェ人の前にヴィーナス*2が現れた時に再生したと人々は信じていた。当時の旅行者は、例えばフィレンツェでは、ポッチェッティ*3を見にサン・マルコに行き、ルカ・ジョルダーノ*4を見にリッカルディ宮に行き、マッキエッティ*5やリゴッツィ*6を見にサンタ・マリア・ノヴェッラに行った。今日では、サン・マルコに訪問者を惹きつけるのはアンジェリコ*7であり、リッカルディ宮ではベノッツォ・ゴッツォリ*8であり、サンタ・マリア・ノヴェッラではスパニョーリ礼拝堂のフレスコ画*9やオルカーニャ*10、ギルランダイオ*11である。

本稿では、少しずつ旅行者、愛好家、芸術家たちにトレチェントとクアトロチェント*12のイタリア絵画を眺め、研究し、収集し、理解させていったこの「価値の逆転」の諸要因を検討する。

あれほど活発で、好奇心が強く、多様だった18世紀のフランス人は、中世の芸術と文学について、14世紀のイタリア人が古代の芸術と文学について試みたのと同じ仕事をした。ベネディクト派の学者たちと、プリミティヴ時代の天国を謳うルソーの二重の影響の下、ラキュルヌ・ド・サン=パレイ、ガラン、ルグラン・ドシー、シャバノン、ムトネ・ド・クレルフォン*13は中世フランス、イタリアの文学を研究した。彼らの研究は、19世紀初頭の2つの勝利―『キリスト教精髄』とフランス記念物美術館の成功―を準備し予告した。

1780年頃に、「『記念物による芸術の歴史:その頽廃から刷新まで』*14の高名な著者が中世の深淵の上に架けようとした橋を、古代の芸術と近代諸国民の芸術の間に架けようと人々は尽力した」*15というのは驚くべきことではない。

セルー・ダジャンクール*16の著作であるこの歴史叙述の批判的研究は、多いに望まれるものであろう。このフランス人学者は、1780年頃に研究を開始した。著作の出版は、本人の死後10年近く経った1823年以降にようやく完了した。この膨大な作品の中に、セルーと協力者たちの文章と図版での役割を同定することは、19世紀初頭の批評史及びフランス美術史への興味深い貢献をもたらすであろう。まずは、セルー・ダジャンクールのフランスとイタリアでの足跡を辿ろう。それにより、彼の発見の創世記を見出すことができよう。

I

セル―・ダジャンクールは軍人から徴税請負人になったが、何よりもまず学者、文人、芸術家だった。18世紀が誇る「趣味人」の輝かしい兄弟団に彼も属していた。ジョフラン夫人のサロンに出入りし、ケリュ、サン=ノン、フラゴナール、ヴェルネ、ブーシェ、コシャン、ヴィアン、ピガールと知り合いだった。コシャンと絵を描き、ジュシューと植物を研究し、J=J・ルソーと植物採取をした。ドーバントンとビュフォンに自然科学を勧められ、フェルネーでヴォルテールの客人となり、文通もした。結局、ケリュが彼を自分の芸術研究の後継者とした。

1776年、セルーは最初の研究旅行として、古代の記念物と地質を調査するために南フランスを訪れた。彼はロマネスク教会と古代遺跡に非常な関心を持ち、科学の目的を忘れてしまった。翌年、彼は英国、ベルギー、オランダ、ドイツを訪れた。パリに戻ると諸事を片づけ、1778年10月24日にイタリアに向けて出発し、二度と戻らなかった。

既に触れた中世への回帰という前ロマン主義運動は、全ヨーロッパ的事実であった。フランス人愛好家のセルーは、これをイタリアで発見することになった。ムラトーリは弟子を残していた。ヴェントゥーリ、ロンバルディ、ボッターリ、ティラボスキはイタリア文学を研究し、ダンテの源泉を見つけた。フィレンツェではランツィ*17がイタリア絵画の概史*18を、「暗黒の世紀」を忘れることなく叙述した。

セルーはサヴォワピエモンテジェノヴァを通ってイタリアに着いた。最も長く滞在したモデナでは、イタリア中世を教えていたティラボスキ*19と知り合った。続いてボローニャに滞在し、そこでイタリアではtempi bassiと呼ばれるこの「闇の時代」の数多くの記念物に関心を持った。

1779年、セルーはヴェネツィアに着き、新しい知人を作った。ゲラルド・デ・ロッシ、レオポルド・チコニャーラ、モレッリ*20のおかげで、彼はイタリア美術に対するローマ帝国末期のギリシャ人の影響を知り、理解した。しかし、彼の最初の伝記によれば、このフランス人学者が最も豊かな鉱泉を見つけたのはトスカーナであった。フィレンツェに滞在し、ピサ、ルッカシエナコルトーナ、ヴォルテッラ、プラート、ピストイアを続けて訪れ、イタリアのプリミティヴ時代の建築家、画家、彫刻家の作品を記述、デッサンした。最後にアレッツォ、ペルージャアッシジを通ってローマに向かう途中、ボルセーナ湖畔で彼は著作の最初のアイデアを思いついたとド・ラ・サールは述べる。「これらの観察を通して、無知の数世紀の美術史を発見し、たどり、固定するという、偉大だが困難なアイデアが生まれた。」*21

セルー・ダジャンクールは1779年11月29年にローマに到着し、グレゴリアーナ通りのかつてサルヴァトール・ローザが住んだ家に居を定めた。ここで、のちに近くのパラッツォで、永遠の都の壮大なパノラマを目の前にしながら、このフランス人愛好家は長い人生を終えることになる。

彼はすぐに研究に取り掛かった。古代の歴史家と詩人が遺跡の導き手となった。教父たちがバジリカの美術を教えてくれた。1781~1782年はナポリに割かれた。ダジャンクールは長期滞在したポンペイパエストゥム、ヘルクラヌムで時間を過ごした。帰路ではモンテカッシーノに留まり写本を調査した

ナポリでセルーはアンゲリカ・カウフマンと知り合い、親密な関係を築いた。ロッシによれば「二人は若き日の情熱が熟年のより長続きする愛情に道を譲る年齢になっていた。」*22ローマに戻ると、二人は毎日のように会った。セルーは自分の文章をアンゲリカに見せ、アンゲリカの描いた絵を批評した。アンゲリカ・カウフマンのアトリエはR・メングスから引き継いだものだった。この高名な芸術家は、ヴィンケルマンの影響から古代への新たな回帰という考えに長らく取りつかれていた。セルー・ダジャンクールは、このドイツ人学者が及ぼしている影響に驚き、「野蛮な時代のヴィンケルマン」であり続けることを決心した。彼は冗談で「はい、私はメディチのヴィーナスの美にさようならを言いました。チマブーエ、ジョット、昔のギリシャ人画家たちのマドンナの単純さにすっかり没頭するためです」と言っていた*23

それゆえ、彼は情熱を新たに中世美術の探求を再開した。イタリア、フランス、スウェーデン、ロシア、英国、ドイツに画家を送って調査させ、中世美術史を明らかにするあらゆるジャンルの記念物を報告させた。

ローマでは、カタコンベを系統的に調査し、サン・タニェーゼのカタコンベを自己資金で開かせ、サン・タニェーゼ・フォーリ・レ・ムーラ教会では干し草置きに使われていた部屋でフレスコ画を発見し描き取らせた。彼の画家たちはアッシジでジョットを、ピサでカンポ・サントのフレスコ画を、フィレンツェにでオルカーニャ、ギルランダイオ、チマブーエを、オルヴィエートでシニョレッリを、ローマでクアトロチェントのシスティーナたるニコラス5世の礼拝堂を、ボローニャでサン・フランチェスコのマドンナ・デル・モンテのフレスコ画を描かせた。最後のものはペロン*24がダジャンクールのためにデッサンした1779年以降に上塗りされている。ピローリ、マッキアヴェッリ、ペロン、オトレーがモンテカッシーノ、ヴァティカン図書館、ヴェッレトリのボルジア美術館、ヴェネツィアのスクオーラ・サン・ジローラモ聖母像、三連祭壇画、エマイユを複製し、著者及びイタリアの枢機卿や裕福な愛好家たちのコレクションに貢献した。

セルーの活動は以上に留まらなかった。彼は若いフランス人芸術家のガイド兼庇護者であり、彼らに自分の図書館とコレクションを開放した。パリス、ドュフォルニー、カステラン、アルトー・ド・モントール、パリオ・ド・モンタベールが彼の深い影響を受けた。

ローマを通る著名人らは、ベルニ*25とダザーラ*26の友人である彼のキャビネを訪れた。1787年7月22日、アンゲリカ・カウフマンはゲーテをダジャンクール騎士の家に連れてきた。「自分の時間と財力を衰退から再生*27までの美術史を書くのに費やしている裕福なフランス人。彼が築いたコレクションは極めて興味深く、暗黒の時代に精神がいかに活発であり続けたかを示す。著作が完成すれば、大変注目すべきものになるだろう」とゲーテは書いている。

フランス革命さえもセルー・ダジャンクールの前進を止めなかった。ロッシが面白い話を語っている。ローマにフランス軍が入城した時、アンゲリカとその長年の友人は死の恐怖に襲われていた。彼らはすぐに安心させられた。軍の役人であるコロー*28が高名な同胞を訪ねてすぐに厚い友情が結ばれ、アンゲリカがローマ遺跡の中でコローの肖像を描いている間、セルーは彼のためにかなりのコレクションを構想してやった。コローの帰国後もこの新しい関係は続き、セルーは友人のキャビネを充実させてやった。1840年頃にコローによって出版されたコレクションカタログは、この固い友情と感謝の証言である。

ゲーテの訪問と役人コローの調査は、当時ダジャンクール騎士が得ていた名声のしるしである。革命が勃発した時、『記念物による美術史』は待ちわびられていた。購読者の中にはルイ16世もいた。手稿はパリにあり、印刷しようとしていたところだった。革命がすべてを中止させ、セルーの友人たちは手稿を返却した。だが、苦しみはこの学者愛好家に富をもたらした。編集者トルッテルとヴュルツが著作を買った時に彼はやっといくらか楽になった。出版は帝政の戦争によってさらに遅れ、1810年にようやく開始され、1823年にやっと完結した

著者の存命中には3部しか発行されなかった。彼は1814年9月24日ローマで、友人アルトー・ド・モントール、パリス、プレシニーら友人たちの気遣いと愛情に囲まれて息を引き取った。友人たちはエコール・ド・ロームの館長レチエールと共同で、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の右側4番目の礼拝堂に彼の墓を建てた。

セルー・ダジャンクールは、自分の著作の編集を監督するためにパリに来ることができず、望んでもいなかったために、友人のL・デュフルニー*29に図版の分類、文章の校正、印刷の監督を任せた。それは最善の選択だった。学識ある建築家で、帝国美術館の学芸員を務めるL・デュフルニーは、イタリアに幾度も長期滞在をしたことがあった。彼は1780年の最初の旅行で「最も暗い数世紀の」芸術に惹かれたように感じたと、カトルメール・ド・カンシーが前述の文章に記している。そして、おそらくこの魅力がダジャンクールと知り合うきっかけになった。ダジャンクールは友人の中に「快く無私の」協力者を見出した。とりわけ14世紀がデュフルニーを惹きつけた。彼はフィレンツェのクアトロチェントの建築家、画家、彫刻家についての注目すべき記述を集めた。「ダジャンクール氏の研究に快く協力したのち、彼は良心的な編集者としてパリにいる必要があると考えた。彼は数年間この仕事に没頭した。」*30デュフルニーの死(1818年)の前、エメリック・ダヴィド、学士院の副司書フュイエ、そしてセルーの友人で伝記作者であるド・ラ・サールが加わった。1823年に『記念物による芸術の歴史:その頽廃から刷新まで』を完遂させたのは彼らである。

セルー・ダジャンクールの著作は彼の深い学識を示し、同時代人への影響は否定できない。「野蛮な時代のヴィンケルマン」の記憶にとっては不幸なことに、この本は彼が刺激したいくつもの業績の後になって出版された。1789年前後にこれは啓示であった。だが1823年には、ダジャンクールはその研究が方向を示した弟子たちによって先を越されていた。ド・コーモンはこの著作について、長所を評価しながらも、膨大すぎる計画が正確性を妨げたこと、かろうじてイタリアについて完全で、他国に関してはまったく不完全であることを指摘している。それは明白である。しかし、1789年には、この不完全性に誰も驚かなかったし、セルーの著作のすべてがまったくもって新鮮だったであろう。

セルーの巨大な収集物を分析することはできないため、代表的な意味を持つと思われる研究の中で著者を跡づけよう。しかし、19世紀末の批評によって発展したいくつかの期待には光を当てる。それは彼の正しさと豊かさの明らかな証明である。

ダジャンクールは同時代に合わせて思考した。それでも、彼は歴史的観点だけのために研究していると思った作品によって、心を掴まれたのである。彼の分析は、昔の職人たちの誘惑と、その最初の批評家の芸術的感性及び特異な価値を同時に証明している。

第一に、セルーは大托鉢修道会であるドミニコ会フランチェスコ会の芸術的重要性を理解した。彼の中でこれは主要な思想であり、何度も振り返っている。例えば、「これほど多くの列福を生み出した最初の頃の情熱」が、芸術の進歩に大きな影響を及ぼし、教会、修道院、墓の建設を導いたと指摘する。また、「神秘の名の下の公共のスペクタクル、あるいはその他の信心深い劇場的な表象に用いられた装飾は、数多くの板絵とフレスコ画の主題を供給した」*31と注目する。

ジョットについては、彼はフランチェスコ会の宗教の重要性に触れる。アッシジのフレスコの箇所で聖フランチェスコについて述べたところでは、「創立者の死の直後から、この修道会の修道士たちが、創立者の実践した徳と成した奇跡をイエス・キリストの聖性とその神的な力に重ねた熱狂が、画家の才能を再燃させたようだ。ジョットは、聖フランチェスコの物語から取られた主題の構想の中に、素描の原理の正確な知識を支えるエネルギーと熱をもたらした」*32と記す。

オザナンからソードとエミール・マール*33に至るまで、これほど豊かに発展したこの解釈の正しさを強調する必要はない。しかしこのことを、ジョフラン夫人のサロンの元常連で、ヴォルテールの客人であった人の筆によって最初に発見するとは期待しなかったと認めざるを得ないだろう。

確かに、本書のすべてが同様の内容というわけではない。しかし、少々ページをめくると、絵画に絞っただけでも、ギルランダイオ、シニョレッリ、写本の画家、カタコンベ、エクスの「燃える茨」に言及したくなる!フラ・アンジェリコに割かれたこれほど新しく、正しい研究を引用しないでいられようか。その文章はサン・マルコの画家のより近代の愛好者がサインしていてもおかしくない。ニコラス5世の礼拝堂の絵を分析したあと、セルーは結論づける。「宗教者たる芸術家は、表現の正しさを、徳の感情、信心兄弟団が毎日彼に示していた見本、そして美を掴む才能に負っていた。芸術家は、1世紀以上の間、単純な真実に近づくことで完璧さを探求してきた流派からそれを求めた。」*34

ジョットの研究におけるように、この知的で巧みな批評は、神秘主義、宗教的インスピレーションに属している。結局は、フィレンツェ自然主義に称賛を与える。ところが、同時代のランツィは、「当時のグイド・レーニ」と呼んだフラ・アンジェリコに陳腐な数行を割いたに過ぎず、クアトロチェントのフィレンツェ派の写実主義を、古代の理想美に反するものとして批判したことに注目しよう。ランツィに比べると、このフランス人愛好家はいかほどに芸術的かつ知的に優れていると思えることか!

(続く) 

*1:ベルヴェデーレのトルソ。1500年にローマのコロンナ宮で発見。https://museum.classics.cam.ac.uk/collections/casts/belvedere-torso

*2:メディチのヴィーナス。ローマのトラヤヌス浴場跡付近で発見、1575年にフェルディナンド・デ・メディチが購入。https://www.uffizi.it/en/artworks/medici-venus

*3:Bernardino Poccetti, 1548-1612.

*4:Luca Giordano, 1634-1705.

*5:Girolamo Macchietti, c. 1535/41-1592.

*6:Jacopo Ligozzi, 1547-1627.

*7:Fra Angelico (Guido di Pietro, c. 1400-1455.

*8:Benozzo Gozzoli, c. 1421-1497.

*9:1365~67年にAndrea di Bonaiutoが装飾。http://museicivicifiorentini.comune.fi.it/smn/CappelloneSpagnoli

*10:Orcagna (Andrea di Cione di Arcangelo), c. 1308-1368.

*11:Domenico Ghirlandaio, 1449-1494.

*12:14、15世紀。

*13:Jean-Baptiste de La Curne de Saint-Palaye (1667-1781), Gallant (?), Pierre Jean-Baptiste Legrand d'Aussy (1737-1800), Michel-Paul Guy de Chabanon (1730-1792), Moutonnet de Clairfons (?), Antoine de Rivarol (1753-1801).

*14:Histoire de l'art d'après les monuments, depuis sa décadence au IVe siècle jusqu'à son renouvellement au XVIe siècle, Paris, 1823.

*15:[原注]Quatremère de Quincy. Recueil des notices historiques lues dans les séances, publiques de l'Académie des beaux-arts à l'Institut (Paris, 1834) : Notice sur Dufourny, p. 237.

*16:Jean Baptiste Louis George Seroux D'Agincourt, 1730-1814.

*17:Luigi Lanzi, 1732-1810.

*18:Storia pittorica della Italia dal risorgimento delle belle arti fin presso al fine del XVIII secolo, Bassano, 1809.

*19:Girolamo Tiraboschi, 1731-1794.

*20:Gherardo de Rossi (1754-1827), Leopoldo Cicognara (1767-1834), Maria Maddalena Morelli (1727-1800)?

*21:[原注]De La Salle, Histoire de l'art d'après les monuments, t. I, p. 3.

*22:[原注]Dumesnil, ouv. cité, p. 17.

*23:[原注]Dumesnil, ouv. cité, p. 31.

*24:Pierre Peyron, 1744-1814.

*25:François-Joachim de Pierre de Bernis, 1715-1794.

*26:José Nicolás de Azara, 1730-1804.

*27:renaissance.

*28:Collot、不明。

*29:Léon Dufourny, 1754-1818.

*30:[原注]Quatremère, ouv. cité, p. 247.

*31:[原注]Seroux d'Agincourt, ouv. cité, Tableau historique, t. I, ch. XXV, p. 88.

*32:Seroux d'Agincourt, ouv. cité, Renaissance, Ire époque, XIVe s., t. II, p. 107.

*33:Frédéric Ozanam (1813-1853), Henry Thode (1857-1920), Emile Mâle (1862-1954).

*34:Seroux d'Agincourt, ouv. cité, t. II, p. 124.